No.43
近江幸代(21)

2000.12.2 掲載
『みんなで生きるの意味』

後列右から4番目が近江さん。手前中央は倉田会長

 メールを通じて知ったエブリワンの活動に参加する友人に誘われて、一緒に参加したのが入会のきっかけでした。
 福祉の専門学校生、陶芸教室の先生、同年代のフリーター、仲の良いご夫婦、エブリワンには様々な人が集まっていました。年齢も参加したきっかけも十人十色でしたが、何よりの目的がボランティアではなく仲間づくりの交流会だということを知り、グループ名の“ウィズエブリワン”の意味を考えるきっかけになりました。
 以前から私は“ボランティア”という言葉に興味を持ち続けていました。高校生のころから私の夢は“ボランティアで世界中の人を助けること”でした。「だれかの役に立ちたい!もしも自分のしたことで相手が少しでも幸せだと感じてくれたらそれが自分の幸せにつながる。これは素晴らしい!」マザーテレサにでもなったかのように、一生無償で人に尽くせたら幸せだと考えていました。
 しかし今、現実に自分の将来を真剣に考えなければならない時期を迎え、こんなきれい事ばかりも言っていられなくなりました。自分で生きていくということは、やはりお金が必要だからです。「人を助けたい、何かの役に立ちたい」そうすることで必要とされる自分の存在を確認したかっただけかもしれないと思うようになりました。
 確かに人のために何かしようという考え方は素晴らしく、自分が必要とされていると思えることは、生きていく力にもなると思います。しかし「助けよう、与えよう」という考えがある限り“みんなで生きる”という本当の意味とは違うのではないかと思います。「何かを与えるのではなく、共に生きる仲間となる」これこそが何不自由なく生きている今の自分に欠けていたのだと思いました。
 「人という字は人と人が寄り添ってはじめて一人の人となる」と教えられたように、人は決してひとりでは生きていかれません。“共に生きる”それ自体が人を幸せにするのではなく“共に幸せになる”ことが大事なのだと思います。障碍者や健常者という枠など使わずとも、みんなが同じ人として生きていくためにエブリワンの会長の倉田さんをはじめとする多くの人々との出会いを、これからも大切にしていきたいと思います。


No.42
宇田川昌寛(36)

2000.11.3 掲載
『私のとりえは目が見えないことです』

 2年前、病気が原因で私は完全に視力を失いました。それまで社会人として普通に暮らしていた自分に、まさかそんな日が来るなんて思いもよらないことでした。
 道を歩くときは聞き耳をたて、全神経を集中して情報収集しながら歩いています。以前のよ
うにブラブラ散歩するなんてことはなくなりました。情報が向こうからやってくることはありません。自分から求めない限り入っては来ないのです。見えていたものが見えなくなった いま、私にとって何かが出来なくて不自由なのではありません。そういう無意識な当たり前の日常がなくなってしまったことがとても残念です。しかし、考えてもどうにもならないことを考えても仕方がありません。どうにかなる事を考えましょう。
 日常生活において、創意工夫すれば解決出来ることはたくさんありました。例えば失明した当初、歯磨きを歯ブラシの上にのせる事さえも苦労していたのですが、ある日指にのせて歯につけて磨けば良いことに気がつきました。何事も発想を転換すれば、別の解決方法があるものです。
 失明後半年間、私は栃木県塩原にある“視力障碍センター”で生活訓練を受けました。歩行訓練、点字、食事や洗濯など日常生活一般を目に頼らないでする方法を学ぶのです。大学にもう一度行きたいと思っていた私は、希望して声の出るパソコンの訓練も受けました。初めてさわるパソコンはスタートスイッチが何処にあるのかも探す状態でしたが、目が見えなくても自分で文字が書けることがうれしくて、訓練は苦にはなりませんでした。おかげで私の世界は大きく広がり、学校のレポート、友人とのメールのやりとり、いまはインターネットリーダーに挑戦中です。音声パソコンがなければ、大学進学も実現しなかったでしょう。
 市原には、目の不自由な人のために広報などの情報を声にして届けてくれるボランティアサークルがあります。昨秋、その情報から知った市の交流ハイキングに参加して、エブリワンの存在を知りました。まだ数回しか参加していませんが、交友関係はますます広がりました。卒業後は、大学(社会福祉学科)で学んだことが活かせる仕事に就きたいと思っています。
 視力を失ったいま、難しいと出来ないとは違うと実感しています。その時出来なくても希望を持ち続ければ、形やプロセスは違っていてもいつかは成功すると信じています。 


 

No.41
小川奈穂(21)

2000.10.7 掲載
『私とTOMOさん』

 人と人、いつどこでどういう形で知り合うか分かりません。私と倉田知典さん(以下 TOMOさん)との出会いも偶然の何物でもありません。
 昨年の10月、私は全く見ず知らずの人と友達になりたいと思い、メールフレンド募集の掲示板にアドレスとコメントを載せました。3日間で120通を超える返信メールが届き、私はとんでもないことをしてしまったのではないかと思いました。驚きと不安、そして喜びを感じながら私はすべてのメールに目を通しました。1通、とても短いけれど引き付けられる返信メールがありました。
 『私は体に重い障碍を持っています。友達と飲み会、旅行、ドライブ(自分は運転できませんが)へ行く事が好きです。楽しい書き込みをお待ちしています』。重い障碍って?でも飲み会?旅行?ドライブ?活動できるじゃない!? わけが分かりませんでした。興味本位だったのかもしれません。でも、友達になってみたいなと思ったことは確かです。違う世界が見られる気がしたからです。
 TOMOさんとメールを交換していくなかで、お互いの謎を解いては尋ね、尋ねては解いて、私達はお互いのことを知りました。顔の見えない友達は不思議な感じでした。そうして私はTOMOさんが会長をしているエブリワンを知りました。初めて定例会に参加したとき、千葉市に住んでいる私は五井公民館にたどり着けず違う建物へ行ってしまいました。TOMOさんは途中まで車椅子を走らせ、迎えに来てくれました。この時初めて、フェイス・ツウ・フェイスで話をしました。私は TOMOさんの顔はホームページで見ていましたし、電話で話もしていたので「初めまして」という感じではなく「久し振り」という感じでした。メールとは違う新鮮な印象を受けました。
 頑張っている TOMOさんの姿に励まされた人は、私だけではないはずです。この1回をきっかけに私はエブリワンの活動に興味を持ちました。2回目には八幡宿駅周辺を歩いて危ない場所や車道と歩道の2、3センチの段差などを確認しました。目の不自由な方には車道と歩道を区別する大切な段差ですが、車椅子の方からすると大変な障碍になるということを聞いて、100%みんなが心地良く笑顔で暮らすための絶対的な方法は無いのではないかと思いました。そんななかでも、みんなにやさしい町づくりを考えていくこと、行動に移して行くこと自体がとても大きなことで大切なことだと思いました。
 私は TOMOさんと出会えて良かったです。あんなにたくさんの返信メールが届き、何人かとメール友達になりましたが、今でも続いているのは TOMOさんとだけです。映画や他愛のない話、時には恋愛相談にも乗ってもらっています。 
 TOMOさんは、学生の私にとってお兄ちゃんのような存在です。


No.40
小林浩子(42)
2000.9.2 掲載
『エブリワンと私』 

 

 1977年、私が市原に引っ越して来たのは高校を卒業してからでした。残念ながら、当時市原の福祉作業所には入れませんでした。東京にある卒業校の言語訓練に通いながら市原福祉会館の日常生活向上訓練室に通っていました。福祉会館では、エブリワン会長の倉田君に度々会う機会があり、エブリワンに車椅子のメンバーがいなかったので入会しないかと誘われました。1991年9月、エブリワンが発足して間もなくのときでした。
 会の活動で楽しかったことはたくさんありますが、中でも印象に残っているのは両国の「江戸東京博物館」に出かけたことです。それまで、私はひとりで電車に乗ったことがありませんでした。メンバーの人に駅の階段やエスカレーターを車椅子ごと持ってもらい、初めて電車に乗れたときは、とてもうれしかったのを覚えています。博物館自体もとても興味深く勉強になりました。電車だけでなく船にも乗って東京湾一周をしました。大晦日にはディズニーランドで姉と一緒にカウントダウンも経験しました。とても寒かったのですが、それ以上に行ってよかった。公民館でハンバーガーを作って皆で食べた時の美味しさも忘れることが出来ません。夏にキャンプに出かけ、カレーを作りテントの中で寝たことも良い思い出です。これもエブリワンで健常者の人たちと友だちになれたから出来たことです。健常者と友達になれたことで私の生活は広がりました。車椅子でも駅の階段と電車の乗降が出来れば、どこへでも行けると思いました。これからもいろいろな所へ出かけてみたいと思っています。
 1992年、市原市海士有木に三和福祉作業所が設立され、私は入所することができました。長い間在宅を続けていると、友人がどんどんいなくなりとても寂しい生活になってしまいます。念願かなっての通所は私の生活を大きく変えました。午前9時、作業所の1日は食堂での朝礼で始まります。今日の仕事の説明がすんだ後、自分の担当が決まります。今の私の仕事は病院で手術の患者さんや妊婦さんが使うh足ブクロfをたたんでいます。倒産した会社の割り箸の袋から箸を出したり、ミシン掛けの仕事をする人もいます。作業所には『いちょう』『桜』『ひまわり』と名前のついた三つの園がありますが、私の所属する桜園のなかにもエブリワンの仲間がいます。
 作業所のなかで、私は車椅子に乗っています。福祉作業所は通所施設なので電車で通う場合はみなさん小湊鉄道を利用していますが、私は電車やバスを利用できないため、送迎が必要です。母も72歳になり運転が困難になったため、今はボランティアの皆さんに協力していただいて通っています。しかし、ボランティアの方も思うようにみつからないのが目下の悩みです。これまで健康でいられるのも母のおかげと感謝していますが、いつまでも頼ってばかりはいられません。これからは自分で出来ることは自分でやり、もっと友達も作りたいと思っています。また将来は、姉と協力して生活をしていきたいと考えています。