No.83
田中 佐知 (16)

 
2004.4.3 掲載
「新たな出会いで成長したいこと」

 この春、私は高校2年生になります。昨年、ソフトボールのおかげで健常者と障害者の友だちづくりのサークル『ウィズエブリワン』の皆さんと知り合うことができました。
 中学校の時、私はソフトボール部に入部していました。ソフトボールに出会うまでの私は、運動は大嫌いだし、大の苦手。頭痛の種でした。中学に入学した当初、部活に縛られたくないという思いもあって、部活には入らないと決めていました。1年生の冬休み「部活って楽しいよ」と、友人たちが私に話すのです。それを聞いて「私も部活をやればよかったかな」と、少し後悔したのです。それから、ずっと心の中のモヤモヤがとれなくて、スッキリしない日が続いていました。とにかく見学してみようと思い、なんとなくソフトボール部の練習を見に行ったのです。先生、先輩、同級生の子、みんな私を歓迎してくれました。好印象に、私は即入部を決めました。運動の楽しさ、仲間の大切さ、先輩への接し方、礼儀など、ソフトボールを通してたくさんの事を、私は学びました。それらは、今の私にとって大切な事ばかりです。
 大好きなソフトボールを高校でやるか、とても迷いました。「通学時間は長くなるし、レベルアップしたソフトボールについていけるだろうか」とても不安でした。「もちろん勉強もある。でも、やりたい」結局、私はやらないと決断しました。でも、心のどこかで、ソフトボールをしたいと思っていました。そんな時、シティライフで『エブリワン・ソフトボール部員募集』を見つけたのです。こんなチャンスはないと、私はすぐに連絡をとりました。エブリワンから資料を送ってもらい、他の活動のことも知りました。
 興味を持った1番の理由は、「心のハーモニー」という言葉でした。私は、人見知りが激しく、人付き合いもあまり上手ではありません。そんな欠点を、沢山の人と話をすることで直したいと思いました。2番目は、福祉に関することです。私の母は、ホームヘルパーの仕事をしています。利用者の生活のお手伝いをする仕事です。母の働く姿を見て、厳しさも感じましたが、とてもやりがいのある仕事だとも思いました。その影響もあって、中学校の職場体験学習では老人ホームで学習させてもらいました。おじいちゃん、おばあちゃんと話をしたり、車椅子を押して散歩に出たり、オムツ交換、食事の介助。少しの間でしたが、介護を体験させてもらいました。それまで、介護ってだれでもカンタンにできると思っていた自分を恥じました。体験を通じて、介護は心も体も全てを使うものだと感じたからです。この経験から、福祉って何かと考えるようになりました。今でも、これだという答えは見つからないのですが、エブリワンの活動を通して少しでも理解できればと思います。
 ソフトボール活動を通して人見知りを克服することで、自分を1歩前へ成長させたいと思います。そして、福祉について考える事で、自分の意見をしっかり持った人間になりたいと思っています。 


 
 

No.82
佐藤 弘崇(25)

 
2004.3.6 掲載
「いじめられっ子が柔道部の主将になれたわけ」  


 小学校の頃、私は毎日のように同級生にイジメられて泣いていました。内気でおとなしい性格は、イジメの対象となりやすかったのだと思います。しかし、心配をかけたくないという思いから、だれかに相談したり、親に話すことも一度もありませんでした。自分が我慢して話さなければ、だれにも心配や迷惑をかけることはないと思っていました。そんな私にも仲の良い友だちがいました。家族ぐるみの付き合いで、キャンプや旅行にも一緒に出かけた思い出があります。学校が終われば、毎日のようにその友だちの家に行き、遊んでから帰っていました。
 中学校は、小学校時代の友だちが全くいない学校へ進学しました。初めは友だちができるかどうか、不安でした。しかし、イジメられて泣いてばかりいた小学校の私を知らない人たちだったので、心機一転するチャンスでもありました。自分から友だちづくりに励むようになり、新しくできた友だちの勧めで柔道部に入部することにしました。
柔道というのは自分の力が頼りの1対1で戦うスポーツですが、団体戦となると自分が勝っても他の仲間が負けてしまえば、次に進む事はできません。やはり?が一団となって練習しなければ、大きな目標には届きません。元々私が通っていた中学校は、市内の大会では毎回上位に入賞するほどでした。代々受け継がれている練習方法や教え方が良いということもありますが、皆の努力が実り、大会で入賞する事ができました。それがきっかけで、私は主将に抜擢されました。泣いてばかりいた小学校の自分が皆の先頭に立つなんて想像もできませんでしたが、同級生や部活の仲間がいたからこそだと思っています。
 それからは、何事にも自身を持てるようになり、高校生活、大学生活も有意義に過ごすことができました。今の私は、初めての人とも積極的に話すことができるようになりました。相手の心が開くように、冗談を交えて場を和ましたり、悩みを聞いたりするまでになっています。自分自身の努力と周囲の友人の協力のおかげで、私は精神的に成長できたのです。
 付き合っている彼女の熱心な勧めで入会した『ウィズエブリワン』も、障害者と健常者の友だちづくりサークルという慣れない環境に最初は「話せなかったらどうしよう」という不安が正直ありました。しかし、皆話しやすく堅苦しさもなく、ワイワイにぎやかに過ごすことができました。現在は、有志で構成するソフトボールチームに参加しています。スタートしたばかりで人数も少ないのですが、いずれユニフォームを揃えて試合ができるようにしていきたいと思っています。今では、誘ってくれた彼女に感謝しています。
「人は自分で変わろうとする気持ちが一番大切だが、周りの友だちによっても大きく変われるチャンスがある」と、私は伝えたい。


 

No.81
岩見涼子 (28)

 

2004.2.7 掲載
「見守ってくれる人がいれば」
※岩見さんはエブリワン会員ではありませんが、「みんなで生きる」に掲載されたひとりであるという意味で、エブリワンWEB上に掲載することとしました。今後も同様に会員以外の方も掲載していきます。お楽しみに。


 今から6年前。22歳の時、私は精神分裂病(統合失調症)と診断されました。精神障害に対する偏見がどのようなものか、私の体験からお話します。
 病気になる前、少しの間ですが、私は看護師として働いていました。手術を受ける人が大勢いたので、患者さんの精神的フォローもしていました。そのために、精神疾患について勉強もしていました。私が病気になって2カ月後。退院して職場に戻ろうと思ったとき、私の席はありませんでした。職場の看護部長に「あなたに看護婦の仕事は無理です。やってもらうとしたら雑務しかありません。周りの人の仕事をみたら『なぜ、みんなと同じ仕事ができないのか』と落ち込みますよ」と言われました。
「辞めてくれ」とは言われませんでしたが、結局辞めざるをえなくなりました。今思えば、その時はまだ体調が悪かったので、仕事を辞める事を選択して良かったと思います。しかし、同じ医療の現場で働く人たちでも、このような「偏見や差別」があるという事を知っていただきたいのです。
 精神疾患は恐い病気ではありません。時間はかかるかもしれませんが、病気になった原因を解決し、薬を飲み、サポートしてくれる人がいれば、健常者と同じように生活できます。一般的に精神障害者はストレスに弱いので、気になることがあると夜も眠れなくなります。私も同じですが、いつも私の周りにはサポートしてくださっている人、やさしく見守ってくれる人がいました。本当に、感謝しています。
「精神障害者って調子いいときはいいけど、調子悪いと何もできなくて困るのよね」と言う人がいます。調子が悪くて、一番辛い思いをしているのは当事者だということを、分かってください。精神障害者に共通していえることは、ハンディを持って辛い思いを沢山してきた分、人の気持ちにとても敏感です。「具合が悪いとき、周囲の人に迷惑をかけた」という負い目もあります。そのため、思い切って活動的になれません。本当は、健康な人と同じように外で活動したいと思っています。一人の人として、認められたいのです。
 きちんとした精神障害に対する認識があれば、偏見や差別という言葉は出てこないと思います。福祉関係者だけでなく一般の人に対しても、精神障害に対する啓発活動が必要だと思います。私は、書籍などから地域に精神障害者をサポートする施設や人がいること知りました。デイケア、作業所、授産施設、援護寮、グループホームなどの施設があります。医師、精神保健福祉士、ジョブコーチなどのサポートしてくれる人がいます。
 市原市は、市川市や東金市に比べて利用できる施設数は少なく、家族会が運営する小規模作業所しかありません。私がいまのように作業が出来るまでにはかなりの時間がかかりました。精神障害者の病状は一定ではありません。薬を飲み続けるという理由だけで、入院する事はできません。病状が安定してくれば地域に出たいのですが、市原には地域での居場所がありません。ひとりで地域で暮らすのは自信がなくても、少しの手助けがあれば自活できる人がたくさんいます。市原にも障害者が安心して暮らせる生活支援センターがあればと、思います。

 


 
 
 

No.80
 『袖ケ浦やさしい街づくりの会』
http://chiba.cool.ne.jp/sodera/
今関 政晃

 
2004.1.24 掲載
セカンドライフ

 私の人生はこうなる運命だったのだろうか?
 最近やっと冷静に自分自身を見つめ直す時間が持てるようになりました。
 私は袖ケ浦市で暮らす障害者です。27歳までは健常者で仕事もしていました。子供の頃は毎日泥んこになって遊んでいました。高校卒業後は測量士の専門学校に通い、20歳で社会人となりました。その間、バイクに乗ったりして多少危険な目にも会っていましたが、入院するような事は一切なく、自分を過信している部分もありました。
 27歳、少しずつ仕事を任されるようになり、色々な事で充実感を得られるようになっていきました。
 秋も深まり紅葉シーズンの中、友人たちと温泉に出かけた私は、これからの人生が180度変わってしまう事になるなんて思ってもみませんでした。少人数ながら夕食の席ではお酒も手伝って大騒ぎ。その勢いで食後にもう一度温泉につかる事になったのですが、酔っ払って足のおぼつかない私は、露天風呂で足を滑らせて水深の浅い湯船に頭から突っ込んでしまったのです。ゴンという音の後、一瞬で全身の力が抜けたような感覚。私はその後気を失ったようです。
 病院に運ばれる途中で気がつくのですが、私の身体が何故動かないのか?身体の感覚が変なのは何故なのかまったく理解できませんでした。診断は頚椎損傷による四肢体感麻痺障害。聞きなれない病名でしたが「将来は車椅子の生活になります」という先生の言葉で初めて事の重大さを知る事になりました。「昨日まで元気に仕事をしていた私が何故、どうして」。そんな気持ちでひと月ほど経ったある日、寝ていた私は体が揺れるのを感じ、そっと目を開けるといまは動かなくなってしまった手足を一生懸命マッサージしている母がそこにいました。この時初めて、自分がなんて愚かなんだろうと思いました。
 母は私を五体満足で産んで、成人するまでしっかりと育て、社会人となり、あとは自分の人生を楽しむ、という夢を少なからず描いていたでしょう。それを私の不注意で障害者になってしまい、一生面倒を見なくてはいけないなんて。「いつまでもこんなんじゃいけない」と、その日を境に障害者としての前進が始まりました。それから半年間のリハビリ生活。左腕のみですが、ある程度自由に動かせるようになったので、電動車椅子での自力走行。補装具を使った食事も出来るようになりました。
 退院後は友人の勧めでパソコンを始めるようになると、市内でも同じ障害を持っている人がいる事を知りました。彼のおかげで障害の知識や現在の福祉事情など様々な事について考えるようになり、現在では少人数ですが、少しでも住みよい街になるよう、ボランティアグループ『袖ケ浦やさしい街づくりの会』を作り、車椅子マップ作りや、講演活動、レクリエーション、市内行事への参加活動を行っています。
 障害者が気軽に出歩ける街に、気軽に声を掛けられたり自然に手助けが出来る街にしたい。だれもがこんな気持ちになれば、お金を掛けなくてもバリアがバリアでなくなるのではないでしょうか。私はいずれ他人の手を借りて生活する事になるでしょう。不安は数えきれない位ありますが、この不安を少しでも減らすことが出来るよう、この街が本当にだれもが住みよい街となるように頑張って行きます。
 私は健常者で過ごした期間をファーストライフ、そして障害者となって新たに過ごす期間をセカンドライフとして、もう1つの自分の人生を頑張って見ようと思います。