No.87
太田 厚(32)

 
『深くつきあってみれば悪い人はいない』

 私は、パソコンなどに使う磁気記録媒体の開発に携わる会社員です。同じ職場で働く、障碍を持った友人の誘いがきっかけで、健常者と障碍者の友だち作りのサークル『エブリワン』に入りました。友人は左半身に障碍を持っていましたが、最初からそれを意識しないほど、気のおけない仲間として出逢いました。職場での何気ない挨拶から始まり、仕事帰りに一緒に飲みに行くような、ごく自然な形です。もともと海が好きで釣りが好きで、仲間と釣りサークルを立ち上げたりもしてましたので、交友関係の広がる『エブリワン』にも興味を持ちました。
 しかし私はこれまで、相手を障碍者と認識して付き合ったことはありませんでしたので、入会当初、自分がメンバーと何をどう話せるか、不安もありました。勝手なイメージで「障碍があると恋愛なんかもしない、内にこもった人達かな」とも正直、思っていました。ですがいざ話してみると、健常者も障碍者も気持ちの上で何も変わりはありません。生活の上で障碍はあるかもしれませんが、お酒も飲むし、恋愛もする。一緒に遊び、うれしさや楽しさ、悲しさや悔しさなど、本音で色んな気持ちを共有できました。
 私は高校生くらいまで、人と付き合う上で「自分を全部さらけ出すと嫌われるんじゃないか」と思い、本心を隠していたように思います。だから当時、親友と呼べる友人は多くない。その後、大学でサークルに入り、ある時、飲み会がきっかけだったでしょうか。思い切って自分をさらけ出すと、自分も楽になり、相手と深いところで分かり合えることに気づきました。世の中、完璧な人はいないし、良い面もあれば悪い面もある。外見だけでなく、価値観もそれぞれで「いろんな人がいるな〜」と、釣りサークルの運営でも感じます。腹を割ってお互いを認め、良い部分をよく見て、悪い部分は受け流す。人と付き合う上で、一番難しいことかもしれません。でも私は、浅く広いつき合い方より、深いつき合いのほうが好きです。
 深く付き合ううち、相手の悪い部分が多く見えてしまい、当初仲の良かった友人と距離を置かざるを得ないこともあります。そうなってもその人には、良い面があることもまた一方でよく知っています。すぐは無理でも、年月が経てばお互い省みてきっと分かり合える。「どんな人間でも心底悪い人はいない」。私はそう信じます。

 


         
 

No.86
中川 淳(34)

 
2004.7.3 掲載
「自分のやりたいことが見えた時」

 会社員から介護職員に転職して、2年目になります。私は工業大学を卒業して、9年間電気機器の会社に就職していました。新入社員の時、大学で学んだ事を生かせる生産管理を希望しましたが、大学時代に学友会の会長をしていたこともあり「君は総務、人事に向いている」といわれ、関東支社の総務に配属されました。
 ある日、高血圧の持病のある40代の従業員が仕事中に脳内出血で倒れ、右半身にマヒが残りました。彼は、休職してリハビリしながら職場復帰を目指すことになりました。総務担当の私は、リハビリの病院を探したり、様々な社会保険事務手続き等のお手伝いをする中、ご家族の奥さんやお子さんとも交流がありました。1年半後、彼は杖をついて通勤し、左手でパソコンを操作して仕事に復帰しました。しかし、結果は介護に疲れた奥さんと離婚することになり、家族は崩壊してしまいました。互いが嫌いになったのではなく、肉体的、精神的に追いつ詰められた状況下での選択でした。「もっと自分が役に立つことはできなかったのか」という悔しい思いが、私に残りました。
 その事がきっかけで、福祉の道で何か自分をいかせる仕事があるのではないかと思うようになりました。いろいろ探したのですが、それには資格が必要でした。そんな時、名古屋の本社に転勤の内示があったのです。私にとっては栄転でしたが、それが福祉への転職の決心となりました。会社を退職し、ハローワークの職業訓練プログラムでホームヘルパー1級の資格を取得するため、千葉高等技術専門校で介護の基本を半年間学びました。医学的な知識も多く、福祉の勉強は奥が深いことを認識しました。実習では、介助等は全く抵抗はありませんでしたが、思っていたよりも相手とのコミュニケーションが難しいことを実感しました。
 市原市内にある特別養護老人ホームで、介護ヘルパーとして働き始めて1年と半年。土日が休みのサラリーマンとは異なり、夜勤もあります。実際、収入も減りました。しかし、思い切って飛び込んで良かったと思います。会社員時代の仕事は、担当者が1人ということもあり、相談する相手がいませんでした。今、仕事は忙しくて大変ですが、職場には想いを共有できる仲間がいます。入所者やその家族との心の交流があります。
 自分が本当にやりたかった事は、大学で学んだのとは全く畑違いの仕事でした。あの時、上司の「君は生産管理ではなく総務に向いている」という言葉がなかったら、また言われるままに名古屋へ転勤していたら、今の私はなかったかもしれません。介護職員としての学びは、私にとって福祉への第一歩だと思っています。将来の目標は、介護福祉士、ケアマネージャーとして、本人だけでなく家族や地域を支えられるようなサポートができる仕事に就きたいと考えています。日々の現場が、私にとっては大切な学び場です。
 


 

No.85
稲留 愛由 (19)

 
2004.6.5 掲載
自分に正直に生きる」

 今年の春、私は大学を受験しましたが、希望校に入ることはできませんでした。今はアルバイトをしながら来年の春をめざし、浪人中です。
 私が12歳の時、両親は離婚しました。現在、母と2歳違いの弟と3人で暮らしています。幼い頃から仲の良くない両親を見て育った私は、皆に気に入られる良い子を演じて来ました。母を安心させるために、学校でも必要以上に頑張ったような気がします。でも、イイ子ブリッ子の私には、友だちがいませんでした。両親の離婚後は学校も休みがちになりました。そんな自分がイヤになり、もっと自分に正直になろうと決めました。
 引っ越しで新しい中学校に通うことになったのを、自分が変わるチャンスにしようと思いました。中学校では、少し変われたような気がしました。そして進学した高校では、素晴らしい友との出会いもあり、学校生活での自分は、ある程度変われたと思っています。しかし、家庭内での母親との関係では、なかなか変われない自分がいました。自分に正直になればなるほど、母との対立は深まり、コミュニケーションがうまくとれないのです。
 高校生になってから、私は母をひとりの人間として客観視するようになっていました。自分が嫌いと思う親と同じ自分がいる事を自覚した時、自分の存在さえイヤになってしまうことがありました。私は、心の居場所を友人や周囲に求めるようになっていました。
 父から養育費をもらうことなく、弟と私を育てるのは経済的にも大変だと思います。その点では、母のことを尊敬していますし、感謝もしています。母も、私を受け止めようと努力してくれていたようでしたが、私は母に母親を求めるのをやめることにしました。勉強することは、ある意味、私にとって逃げ道でした。集中すると、イヤな事を忘れました。経済的には大変だけど、大学に進学して高校の時生物の先生に誘われて参加したトウキョウサンショウウオの調査で興味を持った環境保全を学びながら、自分探しをしてみたいのです。
 この春進学できなかったことで、高校の時受けた奨学金の返済が9月から始まります。そのために、今バイトをしています。来年進学できれば、返済は卒業後に延期されます。そうすれば、大学の奨学金とバイトで、親からの支援は最低限で学生生活が送れると思います。今は、1日でも早く親から自立することが私の目標です。
 私にとって、自分に正直に生きるということは、とても難しく、とてもエネルギーのいることです。自分の言いたいことが母親にストレートにぶつけられるということは、ある意味で幸せなのかもしれません。私にも原因はあると思います。母と対立した後は、憂鬱な不安定な精神状態が続きます。
 そんな私の気持ちを聞いてくれ、いつも支えてくれるのは、友だちや周囲の大人たちでした。本当に、いろいろな人にお世話になっています。感謝したい人はたくさんいるのですが、自分の気持ちを表現するのはとても難しいことです。今度は私が同じようにすることで、お返しができたらと考えています。
 


 
 

No.84
仁藤 多佳子 (32)

 
2004.5.8 掲載
「前向きに余裕を持って」

 昨年6月から、市原市内にある介護サービス事業所で、入浴介助の仕事をしています。ひとりでは入浴が困難な在宅高齢者のホーム入浴のお手伝いです。これから利用が増える夏場は、1日に巡回する件数も増え、自分自身がサウナに入ったような状態になってしまいます。体力も要求される仕事です。当初は、何度もやめようと思ったこともありましたが、今はこの仕事に生きがいを感じ、前向きな気持ちで取り組んでいます。
 3年前、私は2人の子どもを抱えて離婚しました。食べていくために、エステシャンの仕事に就きました。もともと米穀店を営む実家を手伝っていたこともあり、接客は好きでしたが、ノルマ制だっため、安定した収入を得ることが出来ませんでした。
 それで、これからは福祉の時代だからと、安易に介護の仕事を選んだのでした。その直後、実家の父が病に倒れました。身近な介護を体験した私は、自分の学んだ知識がこれほど役に立った事におどろくと同時に、必要なことだと実感しました。その後、リハビリで父はある程度回復しましたが、当時はどうなることかと母と心配しました。
 介護は、本来家族が担うべき事だと思います。しかし、先が見えない状況に、本人も家族も精神的、体力的にも疲れ果ててしまいます。かといって、放り出すわけにもいきません。そんな時、支えてくれるところがあるのは、大変ありがたく、また頼りになる存在となります。私の場合、介護は生活のために始めた仕事でしたが、入浴は利用者さんにとっても心待ちにするサービスのひとつです。利用者さんから感謝の言葉をいただき、ご家族のホッとした顔を見る度に、この仕事に就いて良かったと思うのです。
 今年の春、長男は小学2年生に、下の娘は年長になりました。2人の子どもたちも、私の仕事を理解してくれているようです。今、私の実家で祖父母と共に暮らしています。2人の子どもたちは、おじいちゃんが倒れた姿も見ていますし、高齢者と共に暮らすことで、人が年をとることの意味を分かっています。特別に教えたわけでもありませんが、自然に年寄りをいたわる事も学びました。
 核家族で暮らしていた離婚前は、私の尖った気持ちが子どもたちにも伝わったのか、緊張した家庭の雰囲気に人の顔色をうかがってばかりいました。本当に、かわいそうな事をしてしまったと反省しています。
 私の気持ちに余裕が出てきた今、子どもたちはとても明るくなりました。実家の両親にはお世話になっていますが、前向きに一生懸命仕事をする私の姿を見せることが、子どもたちには何よりだと思っています。
 何事も自分自身を追いつめない事。これは、私が学んだことです。周りが見えなくなって、決して良い方向へは進みません。自分自身を見る余裕が出てくれば、これまで大変だと思っていたことも、大した事はないと思えてくるから不思議です。