市原市
心身障害者福祉団体連絡協議会
佐藤通安

 

2005年6月4日掲載
仲間をつくろう 向き合って話そう 地域とつながろう

 私たち『市原市手をつなぐ親の会』は、知的障がい のある子どもを持つ親たちで組織するグループです。知的障がい を取りまく法や制度を学びながら、互いに支え合って活動しています。現在、会員は85名ほどです。
 15年前、前会長を はじめ10人の会員有志で『野菊の会』を立ち上げました。毎週木曜日に福祉会館に集まり、晴雨兼用のオリジナル帽子はじめ、ポーチ、ブローチなど10種類の製品をつくって販売しています。
 親ならば、だれもが わが子の幸せを願うように、知的障がい を持つ子ども の親も、子ども たちに幸せで実り多い人生を送って欲しいと願っています。知的障がい のある子を外に連れて行くには解決しなければ ならない問題も多く、その機会は極めて少ないのが実情です。「子ども たちを旅行に連れて行って あげたい」。活動の きっかけは、その資金の捻出でした。
 年1回の宿泊旅行と年1回の日帰りレクリエーションには、毎回 大勢の参加があり、子ども たちだけでなく会員の楽しみにもなっています。個人では難しい旅行も、互いに支え あえば可能になります。入浴等、旅行会社にも いろいろ配慮して いただき、会員同士、家族同士の交流場にも なっています。
 今は行政サービスも向上し、福祉に恵まれています。また、知的障がい に対する社会の理解も深まりました。昔は、情報も ない中、世間の目を気にしながら知的障がい児を育てて いくためには、親同士 手をつなぐしかありませんでした。だからこそ、今も こうして毎週集い、顔を合わせて交流することの大切さを感じています。
 市原市手をつなぐ親の会 には、多方面でサポートして いただいている30人の賛助会員がいます。野菊の会には、常時3名の賛助会員さんに直接参加して いただいて います。私たち会員は、子ども に手をとられて、家庭では手仕事も思うに いきません。製品づくりのお手伝いを率先して やっていただいたり、精神的にも会の運営をサポートしてもらっています。本当に感謝するばかりです。 
 交流の場を大切にし、楽しみながら活動を継続させて いくためにも、親同士だけでなく地域の みなさんと共に支え合いながら情報交換し、学び合いたいと思っています。
私たちの製品は、県庁地下の福祉ショップ『ふれあい』、市原市ボランティアセンター福祉ショップの『マーブル』の他、福祉まつりやボランティアまつり等のイベントで販売しています。また、新メンバーの参加も歓迎していますので、気軽に訪ねてください。

■ バリアフリー スポーツ 教室
   毎月第2木曜日 13時〜 市原市姉崎保健福祉センター
   毎月第4日曜日 13時〜 市原市三和保健福祉センター

 

 

市原市
手をつなぐ親の会
 会長 須見峯子

 

2005年5月7日掲載
『皆が幸せになるために 地域に支えられて』

 私たち『市原市手をつなぐ親の会』は、知的障がい のある子どもを持つ親たちで組織するグループです。知的障がい を取りまく法や制度を学びながら、互いに支え合って活動しています。現在、会員は85名ほどです。
 15年前、前会長を はじめ10人の会員有志で『野菊の会』を立ち上げました。毎週木曜日に福祉会館に集まり、晴雨兼用のオリジナル帽子はじめ、ポーチ、ブローチなど10種類の製品をつくって販売しています。
 親ならば、だれもが わが子の幸せを願うように、知的障がい を持つ子ども の親も、子ども たちに幸せで実り多い人生を送って欲しいと願っています。知的障がい のある子を外に連れて行くには解決しなければ ならない問題も多く、その機会は極めて少ないのが実情です。「子ども たちを旅行に連れて行って あげたい」。活動の きっかけは、その資金の捻出でした。
 年1回の宿泊旅行と年1回の日帰りレクリエーションには、毎回 大勢の参加があり、子ども たちだけでなく会員の楽しみにもなっています。個人では難しい旅行も、互いに支え あえば可能になります。入浴等、旅行会社にも いろいろ配慮して いただき、会員同士、家族同士の交流場にも なっています。
 今は行政サービスも向上し、福祉に恵まれています。また、知的障がい に対する社会の理解も深まりました。昔は、情報も ない中、世間の目を気にしながら知的障がい児を育てて いくためには、親同士 手をつなぐしかありませんでした。だからこそ、今も こうして毎週集い、顔を合わせて交流することの大切さを感じています。
 市原市手をつなぐ親の会 には、多方面でサポートして いただいている30人の賛助会員がいます。野菊の会には、常時3名の賛助会員さんに直接参加して いただいて います。私たち会員は、子ども に手をとられて、家庭では手仕事も思うに いきません。製品づくりのお手伝いを率先して やっていただいたり、精神的にも会の運営をサポートしてもらっています。本当に感謝するばかりです。 
 交流の場を大切にし、楽しみながら活動を継続させて いくためにも、親同士だけでなく地域の みなさんと共に支え合いながら情報交換し、学び合いたいと思っています。
私たちの製品は、県庁地下の福祉ショップ『ふれあい』、市原市ボランティアセンター福祉ショップの『マーブル』の他、福祉まつりやボランティアまつり等のイベントで販売しています。また、新メンバーの参加も歓迎していますので、気軽に訪ねてください。
 


 

野中 強
30

 

2005年4月2日掲載
『わたしたちの事を知ってください』

 はじめまして。小規模福祉作業所『ワークフィールド・インク』の野中 強です。私は先天性の骨形成不全症という骨が とても弱いハンディを持っています。小規模福祉作業所とは、ハンディを持つ仲間が集まって仕事をする場所です。インクでは、主に印刷の仕事をしています。
 だれしも自立するには、まず収入を確保することが大切です。私たち障がい者も、年金に頼るのではなく、積極的に就労して経済的に自立することが本当の意味での自立だと考えます。しかし、障がい者に雇用の場は開かれていません。そこで、思いを同じくする仲間同士で作業所を立ち上げました。
 障がい者の就労の場は極端に限られているため、学んだ技術を活かせない まま在宅している人も多いのです。作業所は、その人たちに働く場を提供することもできます。私たちが目指すのは、与えられた作業ではなく、自分たちが提案する ことのできる仕事です。障がい者の印刷屋ではなく一般の印刷事業所です。
 設立した2年前、仲間には高校卒業後デザインを学んだメンバーもいましたが、ほとんどがパソコンは使えてもデザインや印刷に関しては何も分からない素人でした。早く一人前になれるよう、皆インストラクターについて一生懸命勉強しました。現在、作業所の仕事は、名刺やハガキの印刷だけでなく、チラシや福祉団体や市内小学校で配布されている『わっくわく・いちはら』の制作もいただくまでになりました。
 僕自身、短期間で ここまで来れたことにも、おどろいています。最初は遠巻きに見守っていた ご近所の方々も、今では暑中見舞いのハガキの注文をしに訪ねて来てくれたり、玄関先に そっと野菜を置いて いってくれたりと、互いの理解も深まりました。
 しかし、何より変わったのは私自身です。作業所に毎日来なければ仕事が進まないという責任感からか、自分でも びっくりするほど健康になったのです。車いす で移動し、身辺介助を必要とする私は、以前でしたら冬は ほとんど寝込んでいました。今は風邪をひいている間はありません。熱を出しては いけない、骨を折っては いけないと、いつも気を張っています。自分でも おどろくほど、食欲も旺盛です。私から障がいが消えて なくなることはありませんが、気持ちは健常者と同じです。
 同時に仕事の きびしさも学びました。悔し涙を流したこともありました。でも、負けて たまるか という思いで頑張りました。集まりにも積極的に出かけ、チラシを配って宣伝をするようになりました。最初は深夜まで かかって仕上げていた仕事も、今は納期前に仕上げることができるようになりました。お客様に喜んで いただくことで、自信も つきました。今後も、この感動を仲間と分かち合いながら楽しく仕事を続けて いきたいと思っています。
 将来は、印刷だけでなく自分の やりたい仕事を提案して いける作業所として運営して いきたいと思っています。就労を希望する在宅で障がいを持っている仲間を募集しています。ボランティアをはじめ、様々な人が出入りして にぎやかな作業所で、一緒に仕事をしませんか。
 皆さん気軽に立ち寄りください。
  『ワークフィールド・インク』 電話 0436−42−0287 

 
 

 

岩野博

 
2005年3月5日掲載
『可能性にチャレンジする気持ちをいつも忘れずに』

 僕は今、オーストラリアの車いすバスケットチームで、プロとしてプレーしています。そして、日本全国の小、中学校で、年間60〜70回以上の講演を通し、スポーツの楽しさ、素晴らしさを伝えています。
 高3の夏休み。五井駅前のアルバイト先から自宅に帰る途中、僕はオートバイの事故で背骨を折ってしまいました。以来、この足は動くことはありません。みぞおちから下、動かないだけでなく感覚もありません。辰巳台労災病院で、10カ月間入院してリハビリを行いました。車いすバスケットに誘われたのはその時です。
「障害者ができるわけない。きっとおもしろくない」中学、高校で、バレーボール選手として、そこそこ活躍していた僕は、車いすバスケットをバカにしていました。でも、見学に行きプレーを目の当たりにして「障害を持つ人がこんなに動けるのか」。あまりの激しさに「人間のやるスポーツか」と、もの凄い衝撃を受けると同時に、自分の中でフツフツと湧きあがるモノを感じました。
 僕の場合、自分で起きあがる事もできない重い障害なので、なかなか上達しませんでした。まともに皆について走れるようになるまで5年かかりました。遊びたい気持ちが勝り、到達できないもどかしさを味わう度に、やめようとする僕を先輩たちが励ましてくれました。でも、上達したことを自身で実感できるようになると「もっと上手くなりたい」と、欲が出てきました。僕が所属している『千葉ホークス』は、多くの全日本選手を出している日本では最強チームのひとつです。先輩たちのように、僕もパラリンピックに出たいと思いました。その頃、穴川にスポーツレクリエーション施設がオープンして、ホークスのホームコートが白子から千葉に移り、通いやすくなりました。練習にも熱が入り、僕はますます夢中になっていきました。
 26歳の時から、全日本の候補選手に選ばれるようになり、スペインのバルセロナ大会、アトランタ、シドニーと3回連続でパラリンピックへ出ました。その間、世界選手権にも出場しました。アトランタ大会の後、アメリカのチームでプレーしないかと、誘われました。当時、千葉県庁に就職し、プレーも日本の中で満足していたこともあり、断りました。でも、実はとても後悔していました。シドニー大会の後、今度はオーストラリアのチームから誘いがありました。「もう37歳、ここで断ったら先がない。でも日本にいれば、安定した仕事もあるし、選手としても活躍できる」なかなか決心がつかず、また悩みましたが、同じ後悔を繰り返したくありませんでした。最終的にオーストラリア行きを決心したのは「あなたの今のレベルは大したことはないわ。まだまだ先の可能性を試してもいいんじゃないの」という妻の一言でした。
 オーストラリアでは若い選手と同じことはできませんでしたが、よりレベルの高いチームでプレーできたことや、コーチをはじめ、チームメイトが国の隔たり無く受け入れてくれたことで、これまで20年間自分がやってきたことの倍の進化を感じました。
 また、オーストラリアには、いつでも、どこでも、だれもがスポーツを楽しめる環境がありました。日本のような「芝生立ち入り禁止」などの看板はありません。市原でもそのような環境が整えばいいと思います。今後、僕でできることがあれば協力していきたいと思っています。「だれかがやると思った瞬間から、だれもやらなくなる。そう思った時、自分が手をかそう」。いつも僕が子ども達に伝える言葉です。僕はアテネ代表には、なれませんでしたけれど、次回44歳になりますが、現役選手として北京にチャレンジします。
 スポーツは苦しいモノではなく、楽しいモノです。みんなでスポーツを楽しみましょう。

 千種小学校、姉崎中学校卒業。千葉工業高校在学中、事故により車いす生活になる。パラリンピック3回、世界選手権2回、日本代表として出場。2002年、プロとしてオーストラリアへ。所属チーム(パース・ウィルキャッツ)の優勝に貢献。翌年、オーストラリアリーグでベスト5に選ばれる。