喜多孝子

 

2006年10月28日号掲載

「支えあう仲間、集う仲間がいる限り、明日が来るのが楽しい」

 朝9時半、メンバーたちはニコニコとうれしそうな笑顔で、それぞれシーモックに集まって来ます。1日の作業の始まりです。あいさつを済ませたら、一人ひとりが自分の出来る事で、したい事をそれなりに、こなします。クッキー、マドレーヌ、スコーンなど、毎日十種類近くのお菓子を焼き上げ、ラベルに日付を入れ、ラッピングしていきます。作業所にはお菓子のいい香りが漂い、どれもこれもお客様に買っていただくのを待つばかりとなります。
 私たち11人の仲間とスタッフは、いつも心をひとつにして過ごす時間の尊さを感じています。「また明日ね」と言って、互いの無事と1日の仕事を終えた充実感は清々しい限りです。
 4年前、シーモックは多くの方の支援とご協力を得て、長い間の願いが実り、市原在住の心身障害者が通う小規模作業所となりました。養老川のほとり、建物のそばに大きなシイの木があったことから、福祉作業所シーモックの名前がつきました「助け合って、皆のことを考えて楽しく生きる」それが私たちです。
 もし、自分だけ楽しければ良い、自分の利益だけを追求する人に障害のある人が生まれたらどうでしょうか。きっと「私たちは何も悪い事をしていないのに、どうして苦しまなくてはならないの」と、思うことでしょう。障害のある家族を持つ私たちは、何も贅沢をしたいと思ってはいません。必要以上のモノを求めようとも思いません。
 何より心安らぐ暮らしがしたいと願っています。仲間と語り、社会とふれていたいのです。ひとりぽっちや家族だけでは、さびしいのです。楽しい事も、苦しい事も、辛い事も、皆で寄り添い、励まし合い、ほんの少し温かさがあれば頑張れるのです。そして、明日が来るのを楽しみとできるのです。
■小規模作業所シーモック  月〜金 9時半〜15時半

 


 

高柴安子

 

2006年5月5日号掲載

「共に支えあういやしの空間づくり」

「子どもに手がかかる頃が、親にとっては一番いいね。生活に張りがあった。だれも頼ってくれない今は、さびしいものだよ」老夫婦の言葉が私の頭をよぎる。地域の中でも小家族で生活している人が多くなった。私自身、子どもが独立して夫婦2人の生活を送っている。私はこれまで、子育てや生活の知恵を教えていただいた近隣の方々に本当に助けられた。身近なところに人生の先輩であるお年寄りがいることは、若い人にとって大変幸せなことだと思っている。
 開発から40年、自分の住む青葉台がどんな地域であったらいいのかと思う時、自分の幼少期の原風景が浮かぶ。物質的には決して裕福ではなかったが、皆心は豊かだった。近所の人はわが子もよその子も分け隔てなくかわいがり、叱ってもくれた。大人の見守りのある地域では、安心して過ごせた。
 今地域には、子育ての悩みを相談できずに育児に高柴自信をなくしている人や、不登校の子を抱えて周囲から「あなたのせいだ」と責められ、家庭で孤立しているお母さんもいる。だれかに「大丈夫だよ、安心して育てていいよ」と言ってもらえたら、どんなに気がやすまることだろう。地域とかかわる中で、若い人たちだけでなく、多くの人が心のより所を求め、地域を自分のふるさととして大切にしているのを感じた。みんなと一緒に過ごしたい、地域の役に立ちたいと考える先輩たちが多いことも知った。
 大人も子どもも気軽に立ち寄れ、そこに行けば独りぽっちでない。悲しいことも慰められ、何となく癒される。私は、地域の中にそのようなやさしい空間を作りたいと願って来た。人の心の温かさや人を思う優しさの輪を一つ、またひとつ地域に広げ『心の家族』ができたら、子どもも大人も幸せだと思う。
 地域子ども教室『ふれあいキッズ』は、放課後の子どもの居場所として、今年度から小学校の空き教室を使用させていただき、昨年よりさらに規模を広げて活動することとなった。『カウンセリングルームLC』は、心の疲れを感じた時や、悩んで困っている時にだれもが気軽に相談できる癒しの空間として開設した。悩んでいる人の心が癒され、笑顔で前向きに生きようとする気持ちになって欲しい。これらの活動を通して、世代を越えて支えあい、共に生きる温かい心に満たされた地域の原風景が少しでも再現できたらと願っている。


 

荒井のり子

 

2005年12月17日号掲載

母に支えられて「私とパラリンピック」

 アトランタ、シドニー、アテネと、3大会連続してパラリンピックに出場できたのは、応援してくださった皆さんのおかげと、心から感謝しています。思い起こせば、メダリストとしての道のりには語り尽くせない様々なことがありました。
 私が車いす競技に出会ったのは高校3年生の時でした。活躍する友人を見て、格好良いと思ったのがきっかけでした。卒業後、競技用の車いすを制作しました。地域の大会で優勝し、根拠のない自信で臨んだ全国大会は甘くありませんでした。敗退という経験が引き金になり、本当の意味での競技人生がスタートしました。
 初めての海外遠征は、イギリスでの国際脳性麻痺者スポーツ大会でした。結果は100、200、400の3種目で優勝することができました。成績以上に、あまりにも明るい海外の選手たちに圧倒されながらも、同じ障がいを持つ仲間同士、国境を越えて、言葉の壁を乗り越えて、友情を持つことができるという事を知りました。何も分からない海外でも何とかなるという自信がつきましたが、それはいつも母がそばにいてくれるからでした。当時私は20歳になっていましたが、それまでひとりで外泊したことはありませんでした。障がいを持つ私の生活すべてを、母がみてくれていました。母がいることは、私にとって当たり前だと思い込んでいました。
 1994年、北京での大会。「これからは、のり子に付いていかない」と、突然母が言いました。私は心配のあまり、練習に集中できないばかりか、食事ものどを通らず、眠れませんでした。改めて母に頼り切っていた事を思い知らされました。実はその時、母も私から離れられなくて悩んでいたのでした。私にとっても、母ととっても、試練の中で迎えた大会は散々な結果でした。しかし、おかげで私は少しずつですが大人へと成長し、自立する事ができるようになりました。
 1996年、アトランタパラリンピックへの出場権を得たことは、例えようのない喜びでした。母と離れ、日本代表として世界へ行けるのは夢のようでした。同時に、辛いトレーニングの始まりでもあったのです。ゴール目指して集中の2文字だけが頭の中にありました。本番のレース「世界記録だよ!金メダルだよ」というコーチの声に、私は涙があふれて止まりませんでした。
 4年後のシドニーに向けて練習に励む決意をしましたが、私を待っていたのはインタビューや講演でした。これまで経験したことのない人生でした。練習時間が奪われ、記録が出なくなっていきました。3年間のブランクを取り戻すのは容易ではありませんでした。大会が近づくにつれ、メダルがとれなかったらどうしようという気持ちに襲われました。「のり子、いつものように走りなさい。心配することはないからね」。またもや私を落ち着かせたのは母の言葉でした。ゴールの瞬間、私はガッツポーズをしていました。2連覇は最高でした。
 そして2004年、マグネシウムのレース用車いすを手に入れたアテネでは、チーム一丸となって記録への挑戦でした。声援と3連覇のプレッシャーの中、結果は3位の銅メダル。悔しさと失意の思いで、私は母に電話しました。「いつまでも頂点に立ってはいられないのよ。のり子がアトランタで金をとった時も同じ立場の人がいたはず」。コーチや選手も笑顔で迎えてくれました。結果はどうであれ、最高でした。競技を通し、本当に多くの人に支えられ、成長することができました。今、私は32歳。競技は休んで、これからはハーフマラソンにチャレンジしてみようと思っています。そして、母を休ませてあげたいと思っています。